眠りにつく10秒前。

厨二病全開で書いてしまう系の感想ブログです。

エヴァについてポケモンが知っている二、三の事柄

Dreams of reality's peace

Blow steam in the face of the beast

Sky could fall down, wind could cry now

Look at me motherfucker I smile—

(Kendrick Lamar - i (album version))

 

 

 

 

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『シン・エヴァンゲリオン:||』(2020)を観た。

庵野秀明私小説という観点はもう擦り倒されているとは思う。

たしかに、常に作品の根幹にあったのは、父親との対峙だった。しかし、実の父親だけではない。

ドキュメンタリーで再度提示された、自身の作風に強く根付いている特撮や漫画、アニメをはじめとしたサブカルチャー

作家・庵野秀明を育んだカルチャーも含めての父親像なのだろう。

恩恵であり、呪いでもある、親の世代から引き継いだものを昇華し、次世代に継承する。

人生の課題ともいえる大きな事象だが、少なくとも創作とはそういったサイクルを持っている。

ものすごく乱暴にまとめてしまえば、60年代の栄光と挫折を追体験するのがエヴァだった。

若さの特権的な全能感と無力感。その陰陽を体現していた。

その思い入れは愛憎入り交じり、オリジナルのエヴァの頃はヘイトがだいぶ多くを占めていた。今度は多分に、愛情に満ちている。

顕著に表れていたのは、かつての邦画ーーATGや日活ロマンポルノ周辺ーーに倣った露悪的な挿入歌、クラシックの多用。

たとえば、旧劇場版の「Komm, susser Tod 甘き死よ、来たれ」。明らかに「Let It Be」「Hey Jude」を下敷きにした楽曲だ。

次第に上昇していく讃美歌的な展開が、絶望的な物語の進行と重ねられ、見事な異化効果を演出している。

対して、本作ではとても素直なサウンドトラックとなっている。

「甘き死よ、来たれ」と対照的なシーンで流れる「Voyger ~日付のない墓標」が最もわかりやすいだろうか。

ただ、個人的には、第三村の生活を描写していくシーンでの、ビートリーなソフトロック「yearning for your love」に、より肯定的なニュアンスを感じた。

一体何人が期待していたかわからないが、第三村は梶のスイカ畑が伏線であったことを明かしている。

この前半パートを大きく占める場面では、ヒッピー的共同体への憧憬と、後述する3・11への意識が描写されていた。

この変化は、やはり監督の目線が、シンジからゲンドウに移ったことが大きいのだろう。

 

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カセットプレイヤーを返却する。その、何ということのない芝居こそ、25年越しの完結に相応しかった。

ただ、それだけであれば現代的な映画にはならなかった。

やはり、シン・ゴジラ』(2016)を経て顕現した3・11以降との対峙が、真に和解・救済へ向かわせたように思う。

完結にあたり、エヴァは古典的SFの王道に回帰したと言えよう。

というのも、SFの根本的なテーマは、科学と自然の共存にあるそこには、産業革命、世界大戦を経た神話や宗教観の再構成があった。

パルプマガジンから発展していったSFは、当初英雄譚を下敷きにした牧歌的なものが人気を博していた。スターウォーズ エピソード4/新たなる希望』(1977)の無邪気さのそれだ。だが、時代が荒むに連れ、ニヒリズムが充満するようになった。人間が神の名の元に雲隠れしていた醜さと向き合うようになっていった。

オリジナルのエヴァも、衒学的なオカルト趣味を提示して観客を翻弄していた。新興宗教と必然的に共通するミッシングリンクを生むまでに至った。

衒学趣味は残っていたが、初期ガイナックスの持ち味であったカタルシスを肯定し、マンパワーでねじ伏せる方向にシフトした。

それは同時に、特撮ヒーローの肯定でもあったのだろう。

今になって、『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破 / EVANGELION:2,0 YOU CAN (NOT) ADVANCE.』(2009)から『ヱヴァンゲリオン新劇場版:Q / EVANGELION:3,0 YOU CAN (NOT) REDO.』(2012)への急展開は、ヒーローモノのマッチョイズムに対する批評的な眼差しだったと納得できる。

そうしたサブカル的、カウンターカルチャー的な批評性もエヴァの魅力ではあった。

しかし、エヴァの本質はそれだけではなかった。反マッチョイズムを無条件で肯定する胎内回帰讃歌ではなかったはずだ。

エヴァの本質は、繰り返されるエントリープラグの挿入にある。つまり、背骨を戦いの度に入れ直すということだ。

物語の完結と共に、日常として地続きであることを示す実写エンドを私たちが受け入れられた理由はそこにあったと思う。

元を正せば、エヴァの、庵野監督とバックグラウンドを共有していない私のような世代にまで共感を生むのは、やはり繰り返し背骨を入れて戦う様に奮い立たされたからではなかったか。

背骨とは何か。動物が自立運動する為に不可欠な身体部位だ。それは生きる為の信念や意思と象徴といえる。

学生運動に代表される60年代の挫折はたしかにあったかもしれない。それでもそこから立ち上がり、理想に向かっていくヒーローの姿は尊いものだったはずだ。

それはわかりやすい敵と戦うヒーローだけの特権ではない。今作でついにケンスケやトウジたち、選ばれなかった子どもたちも成長し、日常を守る大人として生活している。

そうした市井の人間ーー私たちひとりひとりもそうなれるはずだと勇気づけてくれる

「人間は弱いが、信念を貫けば何度も立ち直ることができる」

青臭いが、泥臭いが、このプリミティブな生の意思は、特に新劇場版に顕著だった。そして、それこそリメイクされた意義だったと私は思う。

 

 

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正直、最初は「思い入れがない状態で観てごめんなさい」と思った。

映画館を出るときには、「宇多田ヒカルの曲しか残ってない」という馬鹿みたいな状態だった。

ただ、さすがに1,800円払ってエンドロール数分間しか受け取れれないのは悔しい。

そう考えて、違和感を糸口にひとつずつ辿っていった。

なにより大きい違和感だったのは「終わらせるということ」

これは本当に思い入れがないとできないことだと思う。

ここまで、世代論的に考えたのも、『Q』で世代間の断絶を感じたのが大きい。

シリーズ化しているガンダムウルトラマンならともかく、ヤマトがどうのこうの言われたら自分たちの世代にはわからない。

Q』までは十代だったので、「おっさんにしか向けられていない」と感じてしまった。

そこから『シン・ゴジラ』があって、傑作だっただけに余計、『Q』以降の陰鬱なエヴァが観たいとは思えなかった。

時間が経つにつれ、エヴァ以外のアニメ・漫画作品が次々に台頭してきたのも、気持ちが離れた理由だった

細田守新海誠監督といったフォロワーが、ジブリ両巨匠不在の隙間で「アニメ映画=青春モノ」というパッケージを完成させ、アニメファン以外の層を広く獲得してみせた。

結果的に『シン・エヴァの救済を先んじるかたちとなった輪るピングドラム』(2011)で、庵野監督とほぼ同期の幾原邦彦監督は第一線に復帰した。

シン・エヴァ』の結論を先駆的に表現したという点においては、『ダーリン・イン・ザ・フランキス』(2018)もかなり近いものを提示していた——エヴァの戦後処理という義務感があまりにも強く、今となっては「『鬼滅の刃』(2016)になれなかったエヴァ」という切ない作品——。

また、エヴァ以降でありながら、80年代角川映画的な演出で独自性をみせた『SSSS.GRIDMAN』(2018)など、カラーと同じくガイナックスから独立したトリガーもコンスタントに作品を発表している。

フォロワー以外には、ジブリ的な文脈から受け入れられた『この世界の片隅に』(2016)も広く受け入れられた。

そしてなにより、現在も劇場版がロングラン中の『鬼滅』のヒットが大きい。

エヴァ以降の作品群の影響を多分に受けていながら、『花とゆめ』の感性と『少年ジャンプ』のメソッドを以って、エヴァ的なメンタリティを昇華してポジティブな解放に向かった『鬼滅』。

完全に「アニメファン=エヴァを待っている人」という図式は崩壊していたように思う。

こうした状況下で、「終わらせる」と意気込んでいるエヴァはズレているように感じていた。それくらい気持ちが離れていた。

ただ、庵野監督のファンとして、どういう決着をみせるのか見たいという一心で観に行った。

Qへの違和感を払拭するには世代的な断絶を理解する必要があった。親vs子どもという家系図的な私小説では片づけられない気がした。

上記の世代間を繋げた作品構造が十分な考察とは思えない。特撮は『ウルトラQ』(1966)くらいしかわからない。けど、60年代の音楽や映画は自分なりに好きだから、なんとなく掴めた気はする。

鑑賞後に観たドキュメンタリーもヒントになったが、それ以上に世代間の繋がりを実感できたのはポケモンがきっかけだった。

 

 

 

 


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思えばポケモンエヴァとほとんど同時期にはじまったコンテンツだ。

主要スタッフの世代が近いこともあり、ルーツが特撮という共通点もある――『ウルトラセブン』(1967)の「カプセル怪獣」が元ネタの一つ――。

ポケモンはリアルタイムで親しんでいたから実感としてわかる。

たとえば、サワムラーとかユンゲラーとか。元ネタが何か知らなくて、ポケモンとしてそのまま受け取っていた。

そういう、子どもの時に体験した物事を次世代の子どもに渡して遊んでもらう、楽しんでもらう。

エンターテイメントはそういう風に循環していくということは、ポケモンを通して、私は実際に体験して知っている。

そして、そのサイクルの輪がずっと止まっていないのがポケモンだ。

ゲームもアニメも大分離れていたが、今でもそういった芽がいくつも散りばめられている。

たとえば、ゲーム最新作の『ソード・シールド』(2019)。

冒険の舞台であるガラル地方のモデルがイギリスだからだろうか、マリィというキャラクターは明らかに80年代のパンクス風の格好をしている。

 

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加えて博多弁で、地元の応援団(エール団)がついて回る…という、80年代アイドルとその親衛隊みたいなキャラ付けがされている。

自分のような耳年増というのか、サブカルオタクには新鮮味を感じる楽しみ方はできない。だけど、80年代のことなんて知らない子どもには新鮮に映るんだろう。

 

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また、メインのライバルであるホップは、リーグチャンピオン・ダンデを兄に持つ。熱血少年で、兄のようになりたいと先走りがちだ。

それがーーゲームシステム上しかたがないがーー主人公に負け続け、他のライバルにも負けを喫するなどの経験を経て、挫折を経験する。

だが、冒険を通して「困っているポケモンや人を助けたい」と研究者になることを終盤で決意する。

TVシリーズの最初のライバル・シゲルと似た経緯だが、ホップが新しいのは、むしろサトシと近い性格の少年が研究者を志すという点だろう。

ひとつ突き詰めた先に輝かしい成功が待っているとは限らない、だが可能性は閉じることはないーー。子どもたちに理想的なロールモデルを提示しているようで、思わず感動してしまった。

常に子どもに寄り添っているともに、上の世代ーー60年代、70年代の特撮に親しんだ世代すら楽しませようという気概を感じるのがポケモンの幅の広さだ。

ARシステムを取り入れたポケモンGO(2016)は、まさしく初期のコンセプトそのままだ。昆虫採集とカプセル怪獣

この2つに夢中になった開発スタッフと同年代の世代がポケモンGO』に夢中になっていたのは記憶に新しい。

こうした事象を取り込んだのかはわからないが、『ソード・シールド』のダイマックス・システムは、考えてみれば特撮そのものだ。

巨大化はウルトラマン。そして巨大化したポケモン同士の戦いは東宝チャンピオンまつり的な怪獣バトルの様相を呈している。

 


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これは最初期のポケモンのCMだ。ゲームボーイというメディアの利点である通信機能をセールスポイントとしている。

このCMではさまざまな世代がつながって「ともだち」になれることを示しているが、長い時間を経て、それは現実のものとなっている

画面の中に小さな世界を作るということ。それがゲームの原点だと思う。そして、そのビジョンを共有することで広い世界と繋がることができる。そういう連関に私はとても感動してしまう。

エヴァにもそういう側面がある。震災後の停電時に矢継ぎ早に広がった「ヤシマ作戦」だ。単なる遊び心のようなものかもしれないが、現実に起きた問題に対して、作品と重ねることで事象の解像度を上げることができる。これもまた、ひとつのビジョンを共有することで起こり得る出来事といえよう。

作家性の高いエヴァと、よりチームで作り上げるポケモンは比較対象としては相応しくないかもしれない。でも根底にある普遍性は案外同じものかもしれない

個人的には繋がりにくい点と点が線になった面白さがあったので、勢いで書いてみた。それだけ。

終わっていくエヴァとはじまり続いていくポケモン

ある意味真逆な方向性を持った両者だが、どちらにも創作が持つポジティブなエネルギーを受け取れる、素晴らしい作品だ。

長く続くコンテンツには世代交代という世知辛い現実がある。各世代によって受け入れ難い表現もなかにはあるだろう。しかし、広い視点でみれば、自分では知らない楽しみ方を発見できたりする。

それは良質な作品作りに励むクリエーターたちの弛まぬ努力が生んだ結実だ。そうした素敵な作品に出会えたことは幸福なことだと思う。

 

 

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ポケモンについては『名探偵ピカチュウ(2019)の記事でも掘り下げている。

ぶっちゃけ映画に今一つノれなかったのが書いたきっかけだったんだけど、どんだけポケモン肯定したいんだ。ポケモン大好きだな自分。

なかでも、ピカチュウがアイコンであり続ける理由については我ながら結構秀逸。

ちなみに、銀河鉄道の夜』に電気栗鼠(リス)が登場するのを最近知って、「日本文学とポケモンが繋がってる!」とテンション上がったりした。ポケモンだいすき。

 

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記事中で全く触れられなかった『薄明の翼』のメインビジュアル。アイキャッチ詐欺。