眠りにつく10秒前。

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近く/地殻/知覚の扉

表記揺れすぎなんで気取って英語で書きます。インテリでごめんね。Aldous Huxleyの『知覚の扉』を読みました。

彼の著者『素晴らしき新世界』はディストピア小説の名作とされています。個人的にディストピアモノに生きる登場人物って全然幸福そうに見えなくて、「これって社会として機能してんの…?旨味全然ないやん」と突っ込み入れちゃうんですけど、『素晴らしき〜』は私の理想のディストピアモノでした。洗脳も描かれてるけど、それ以上に大多数の市民の快楽主義的な幸福は担保されてるから、その上で主人公たちが完全に調和を狂わす異物だなってことが実感としてちゃんと感じられる。トマス・モア『ユートピア』の風刺性を正しく受け継いでいるんじゃないでしょうか。

Huxleyとは気が合うわコレ、と二冊目に手に取ったのが『知覚の扉』。というか、あと『恋愛対位法』以外は手に入りにくいっぽい。

ドラッグ体験記という形なんですが、中身はほぼ芸術論と言ってよく、タイトルの"知覚の扉"というのはめっちゃ要約すると「よく見ろよ」という意味に捉えられるんじゃないかな〜と思います。ラリったHuxleyはボッティチェリの絵画に見るのと同じように、自分のパンツの皺に一瞬の永遠を見出します。「視る」ということは永遠なんだと。そのゾーンに入ってしまえば世界の秩序から離れて、「視る」自分と対象の幸福な交感が待っている、つまり「ウチらニコイチで最強じゃね」ってことですね。多分な。

この万能感がハンパないのが、「やっぱフェルメールが究極っすわ」とか恥じらいなく書いてるあたりですね。おっさんになって初めて美術展行った人みたいなこと言ってる!ドラッグすげえ!

前述の皺の下りのように、現実生活でも「視る」ってことが大切なんだな、と最近よく思います。人の顔をちゃんと「視る」と自然と笑顔が作れるんだな、と気付いたことがきっかけでした。まぁHuxleyは生身の人間には永遠を感じなかったらしいですが…。

視姦に代表される、視覚によるサディズムって、大体相手をピグマリオンとして解釈しているわけで、受動的にスマホ眺めているのとは違う。敵意がないことを示す表現が笑顔、だとすると単なる反射なんですけど、「視る」主体の自分がいて、自分もまた相手の「視る」対象とされる関係性が確立されているからこそ得られる反射なんですよね。

"目にうつる全てのことは メッセージ"とユーミンは歌っていて、タイトルの「やさしさに包まれたなら」って一見受動的なんですけど、"カーテンを開いて"、"大切な箱 ひらく"と、能動的に自分を外側に向けることではじめてやさしさを受け取れるという歌なんですよね。しかも"うつる"ってひらがな表記だから、「映る」という意味はもちろん、「移ろう」という意味も含まれているようにもとれる。一瞬に全て、永遠を見出してるのかもしれない、とか考えるとやっぱりユーミンやばいとしか言えない。

他にも、花の官能性にもヤラれてるHuxley。自分も子供の頃、一日中花を眺めてるのが一番幸せだった記憶があって、今思えばトリップに近い感覚だったのかもしれません。ヘッセも「アヤメ」という短編で同じようなことを書いていて、この二人の作家が同時代というコンテクストを持たずとも、ヒッピー達に受容されていたというのは偶然ではないんだろうと思います。

ドラッグは健康的ではないから自分で体験したいとは思えないけど、表現者たちに普遍的なイマジネーションを与えていたのは確かなのかもしれません。表層のその奥を覗き、普遍に達する視点の転換を補助する作用があるんじゃないかと。こうなると多田智満子『薔薇宇宙』も読んでみたくなりますね。復刻してくれないかしら。

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