眠りにつく10秒前。

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世界の涯まで連れてって

南極物語』を観た。

輪るピングドラム』の元ネタの一つということで手に取った。1980年代の邦画を代表する大ヒット、文部省特選、といった言葉が並んでおり、「道徳的な作品なんだな」という先入観。

まず、冒頭のシーンでちょっと違和感があった。渡瀬恒彦演じる越智が犬に対して、「誰に食わせてもらってると思ってるんだ」みたいなことを言う。ムチを打っていたりもして、そこに関しては時代の違いかなと納得できるものの、なんだかこのセリフにはモヤモヤが残った。

で、なんやかんやあって犬たちが南極に取り残される。観測隊の人間たちは日本に帰り、高倉健演じる潮田は責任を問われ大学を辞職。犬の飼い主だった荻野目慶子演じる麻子に詰られるものの、よくわからん理由で許される。

この人間ドラマの展開もご都合主義的というか、良く言えば観客に解釈を委ねているともとれるのかもしれない。ただ、基本的にこの映画が自分と合わない原因のひとつがこの作風。ドキュメンタリータッチとされているが、登場人物に感情移入したいわけではないのだけど、麻子の心変わりには理解が出来なかった。叙事的に撮ることは出来たわけで、なぜこんな重要な役の内面を掘り下げなかったのか。

そして取り残された犬たちのシーン。とにかく悲惨な目に遭う。これがひどかった。おそらく足に麻酔を打ち、脚を引きずらせる。極寒の海に投げ出される。もしかしたら平温のプールに氷を置いていたりするのかなと思ったが、どうも実際の南極で撮影したらしい。どうしてここまでしたのだろう。

取り残された後の犬たちの実情はわかっていない。創作の余地があって、ドキュメンタリータッチとはいえ現実離れした撮り方が許されると思う。たとえば犬たちを横並びにしたロングショットを撮る。次に一匹の犬が水の中にいる。最初のロングショットに戻ると犬が一匹減っている。犬が溺れているように見えようが泳いでいるように見えようが、これだけで伝えることは出来ると思う。それをあたかも人間が演技するように犬に悲惨な目に遭わせる。悲惨な現実に晒された犬たちの話を、人間たちの映画撮影という現実で追体験させられる。これが想像、ひいては創造力のなすところであるとは言いたくない。むしろ想像を放棄しているのではないか。ドキュメンタリータッチという文句がただの言い訳にしか聞こえなかった。

想像力の欠如、人間のエゴ。それを炙り出す題材であるはずが、作品の構造自体が追随している。壮大な皮肉なのだろうか。そんなニヒリスティックな趣向の為に三年も費やしたのだろうか。そうは思いたくない。

輪るピングドラム』の幾原邦彦監督は、寺山修司に影響を受けている。寺山は世界の果てに、虚構をない交ぜにして連れて行こうとする。『少女革命ウテナ』でも描いているように、幾原監督も同じ意識で世界の果てと対峙している。南極は世界の果てだろうか。オウムの事件、『銀河鉄道の夜』、そして『南極物語』。おそらく主にこの三つの事象、作品を軸に『輪るピングドラム』の物語は作られている。オマージュではなくひとつの答えとして。

表現とは何なのか。大きな疑問符はまだ地平線の上に浮かんでいる。


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