眠りにつく10秒前。

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本を読むということ

未読の本が積まれていても尚、また新しく本を買ってしまうのはなぜだろう。

いつか読むだろうと思って「とりあえず」と買ってしまったり。たしかにそういうものも中にはあるが、読書の頻度が激しく変わる達なので、こんなにも抱えこむ必要はない。

読書というのは基本的に現実逃避的な行為だ。読書家の私たちはどうしても「いや、この中に現実の姿が映し出されて云々」と言いたくもなってしまうが、まあ世間一般の感覚とは残念ながら違う。私にとって安部公房の小説は現実そのもののように見えてしまったりするが、大体の人にとっては超現実(シュルレアリスム)的で理解しにくいものだったりする。

現実逃避だと認めると、いわゆる積読のものがありながら買い足し続けるというのは所有欲を満たしたいからに思える。更に先ほどの、本の中に現実が映し出されているという意見も盛り合わせると、現実を万華鏡のように眺めることになる。なんとサイケデリック

世界を多様に見るのは良いことじゃないか、とどこかの偉人の言葉まで持ち出して反論する人もいるだろう。それは正しい。と、私が多様性を認めるとすると、私の思考は分裂してしまうことになる。フィクションに入り込みやすい私は直感として読書を危険なもののように感じているにも関わらず、他人の意見を尊重しようとする自分もいて、明快な答えというものが出せずにまごついてしまう。

感受性豊かな子に、想像力豊かな子に、と大人たちは子どもに読書の習慣を身につけさせようとする。たしかに想像力は豊かにはなったかもしれないが、それが現実生活に適応されているかと考えると、甚だ疑問であるし、感受性豊かというよりか単に神経過敏になっただけな気がする。これは読書の弊害なのかもしれないし、単に他人との関わりが薄かったからなのかもしれない。

かといって心理学や哲学の本を読み齧ってあっさりと解決するわけではない。「これはこういうことであなたは病気だからああしなさい」と断言の形で書かれていても常に半分疑ってかかってしまう。この疑心暗鬼にも近い疑ぐり性はすでに何かに取り憑かれているとしか思えない。となるといくら知識旺盛を気取ったところで最終的な決定権は直感力ということになるのだが、その直感力さえ手放しで信用が置けないわけで、忘れたふりに身を任せる以外に不安から解消される時は訪れない。

こうしてぐるぐると考えてしまうのは直感力、つまり主観的思考に欠けているせいだ。学問や批評の場においては、知識不足を自覚している謙虚な姿勢と捉えてもらえるかもしれないが、結局は未熟を嘆く他ないわけで、一般社会においては、客観的思考ばかりに集中していては周りからどんどん置いてけぼりを喰らう羽目に遭う。

要するに私は社会との折り合いが悪いことに悩んでいる。そしてそれが本を読み多様な価値観、視点を知ったことと遠からず関連があるのではないかと考えている。

最近、10代の頃に夢中になって読んでいたヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読み返してみた。すると、ヘッセという人は、私の数倍はうじうじと思索に耽っていたことがわかった。これを悪影響ととるべきか?私はこのまま知の世界に突き進み自己を確立する道を目指すべきか、寺山修司よろしく「書を捨て町へ出」るべきか。

いや、アフォリズムに踊らされ、二元論に陥ることは愚かだ。ヘッセも中庸であることを志していた。しかし、いくら社会との折り合いが悪いとは言っても、TPOを完全に履き違えて生きているわけではない。それをわかった上で頭を抱えているわけだから、大げさにいえば自分がこれから生きていくための指針、アイデンティティの問題になっている。

そこで、「常に半分疑ってかかる」、「最終的な決定権は直感力」という考え方をプラスにとってみる。関根勤は子どもの生まれる際、教育、育児に関連する書物を当時の最新の研究に至るまでかなり読み解いたそうだ。その勉強の姿勢には一つの基準があって、すべてを鵜呑みにするのではなく、自分が納得でき得ることを取捨選択して学んでいた。それは全く新しい思考を取り入れるというよりは、半分以上は自身の考え方の正しさを確認するためのものであったという。

その方法論に当てはめるとすると、私の書物に対する意識もそれほど遠いものではないように思われる。少しは安らかな気持ちになれる。これは彼について何となく気になって調べた情報から得られたものだ。知識欲もそう無駄ではなかったという二重の安心感である。彼と私の大きく違う点は主観的思考への信頼感だが、そこまで深刻な問題ではない。何故なら、ひとたび肯定の狼煙が上がるとみれば、容易に楽天さを取り戻すことができるのだから。加えて、繰り返しになるようだが、肯定の証拠として他者から与えられた、客観的思考により導き出されたからでもある。

ここまで書いておいて身も蓋もないが、そもそも自分の主観を信じきっている者がどれほどいるのだろうか?多くはないだろうし、その者はよほどの天性の持ち主か度の過ぎた楽天家だろう。自分を疑うことは普通のことだ。そして、活字を通して他者と交流することは自らをおし広げることに他ならない。自家中毒に怯える心配はしなくてよいし、まして直接他者と関わることを否定しなくてよいし、してはならない。

だから私は本を手放すことはせず、棚でしばらく眠ってしまうことになっても、出会いの機会を逃さなくてもよいのだ。


*


これは数年前に書いていたメモを元に書き起こした。自己を見つめるといえば聞こえはよいが、自己言及ばかりでいささか神経衰弱の感もある。共感性を誘うためにあたかも現在進行形で思考が運動しているとでも言いたげな小細工が読み返して無性にイライラする。大体、こんなに長たらしく書き散らかしておいて、ただの言い訳なのだ。今、ここに書いていることもそうだ!反省を気取った自己弁護だ。

前回の記事同様、恥部を曝け出すような悪趣味なことをしているが、映画の観過ぎで読書の時間を割かない自分への戒めが目的だった。プレミア化はされてはいないもののなかなかお目にかかれないジャン・ピエール・ロシェの『恋のエチュード』を見つけたのが運の尽きだった。性懲りもなくまた本を買い込んでしまったのだ。

社会性なんてどうでもいい、人生が豊かになるかどうかなんて人それぞれ。大多数の人にとって、なくても困るものではない。が、私にとって本というのはバラだ。ヨーゼフ・ボイスの美しい言葉を最後に引用したい。


"Ohne Rose tun wir's nicht" 

バラがなくては生きていけない!



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