眠りにつく10秒前。

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MemoReals #4-1

嘘みたいに三月が過ぎ去って四月が来た。やはり花粉は悪だ。



日向坂46のまとめ動画をうっかり見て、うっかりハマる。普通の子たちで良い。



アイドルの子がスれて調子に乗り出すと目が当てられなくなる。いや、どんな人でもそうか。



NEWS RAP JAPANが終わったのでAbemaを解約した。



風立ちぬ』を久々に観て、宮崎駿のキャラデザの良さに気づく。久野遥子の目の輝きと似てる。



近所の猫の鳴き声が基本「ギュエエ」。



目の中に睫毛が重なって5本ほど入っていた。シャー芯か。どうりで充血してると思った。



モノクロ映画ばかり観てると、誰とも映画の話が出来なくなってしんどい。



映画でも本でも、推薦コメントのつまらなさはどうかしてる。誰の得にもならない。



飲み会やSNSで自分を消費するより、もっと面白い使い方を探したらいいのに、という人はたくさんいる。



『さらざんまい』の感想も考察も書かないでただ楽しむことにする。普通に観たい。



フルーツバスケット』の安定して楽しめる感じがすごい好き。読んでたはずだけど、所々忘れてるのが良い塩梅なんだろう。



春ねむりかっこよ。

MemoReals #2-2

夜、目を覚まして何となくショパンを聴いてた時、「映画を観たい」と思えた。去年の年始に観た『花筐 -HANAGATAMI-』が未だに自分にとっての映画のイメージの、最も表面に張り付いているのだと思う。雪の晩だった。駅前には誰かを待つ車が並んでいた。『ホーリー・モーターズ』を思わせた。やはりスクリーンで観た映画は特別だ。『ロゴパグ』のロッセリーニ「潔白」でのラストシーンのように。



ペンタゴン・ペーパーズ』の題材は悪くないのに「またベトナム戦争の話か」と落胆させられる。スピルバーグとは相性が悪いのだろうか。



眠る数十分前までGet Up Kidsを聴いているトンチンカンな状態だったので、ベタにBeatlesのI'm Only Sleepingを聴いてから就寝。



ケネス・アンガージョナス・メカスといった実験映像作家の再評価が起こり始めている(といいな)。実験、と一口に言っても実際はモンタージュの実践に近い。先日言及したMVなんかと繋がりやすいので、現代の方が理解できる人が多いとは思う。



図書館でドゥルーズ=ガタリ借りるも、下巻に注釈が固められていた。どうすればええねん…となり、結局中断。まとめて借りよ。



ナンバーガール復活😇殺人的な音で死にたい😇😇😇😇



イヤホン爆音で聴いてたナンバガを上回る爆音で走ってたバイク、鉄風鋭すぎ。

MemoReals #2

シューゲイザーの代表作だからというべきか、Rideの1stは頼りないボーカルと演奏の成熟さのバランスがいつ聴いても不安定で新鮮に感じる。エバーグリーン。



糖質を摂り過ぎると躁鬱が激しくなるのか、制限をかけると楽で仕方がない。趣味のーーと書くとよもや宗教かと思われそうだけれどーー断食と相まってますます食べなくなると怖い。ナチュラルハイで栄養失調とか笑えないので、期間は3日が限界かも。



https://youtu.be/jVfEJsM3lf0

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夜のシーンが多く、モンタージュで成立している為か、カラックスを思い出す。



他人の言葉を何度も噛み砕くこと。


 "伝統文化はそれとして受け継いでも個人としてそれを咀嚼して自分のものとしなければ、それは単なる形式、あるいは形骸に堕としてしまう。また、こうもいえよう。伝統文化が生き生きとしたものとして受け継がれていくためには、それが個別的に、個人として生きなおさなければならない。各個人が、そのような読み直しや生きなおしを実践することによって、かえって伝統というものは維持され、受け継がれていくともいえるのだ。しかし、ややもすれば形式が形式としてのみ保守され、人々を拘束するということになりかねない。これは一種の退廃である。論者はリルケの伝統に対する拒否感というのはこのようなものだったのではないかと推量する。すなわち、伝統に距離感を抱くリルケもこうした形で実は伝統を受け入れ、それに新たな命を吹き込み、伝統の一端を担っていったと考えられるのだ。これが、個人のレヴェルで遂行されるという点で、それを広く深い意味でヨーロッパの人文主義(humanitas)の伝統といってもよいと思われる。こうした課題を個人で担わなければならないということは、我が身に沿わせた個人の努力こそが普遍的なものにつながる唯一の道だということであるが、もう一点指摘しておきたいことがある。それは、マルテが自分のことを無と規定しているように、個人が自分の存在を限りなく小さなものととらえなければならないものということである。実は自分を極小化するこのような自己認識及び自己規定によってはじめて外の世界が見えてくるということなのだ。先に人の自己認識の難しさということに触れたが、外界のものを認識する際にも当然自己という要素は深くかかわってくる。自分があればこそものは見えてくるのだから、その自分という要素を加味しない認識などということは問題にならないが、それが大きすぎるとバイアスがかかるため外界の認識はゆがみを生じる。自分がいない世界というのは極論であって生の現実から乖離しているが、外界を単なる素材と位置づけて、自分のイメージが世界そのものであると主張するのも暴論であろう。外のものがそのものとしてとらえられ、同時にそれが自分の認識であるというのが究極の姿であろう"

(平野篤司「リルケにおける見ることと見られること To See is to be seen, Rilkes poetics」聖心女子大学論叢 = Seishin studies 128 聖心女子大学  2017-01)



  "「自分を知るってことは、それほど僕には興味はない」と、ことば少なに彼は云った。

   「知っててよ。それは目的ではなくて手段よ。それはあなたを自分から解放するためよ。自己凝視、自己批判、それがあなたのお好みの態度。あなたが自分を眺めるとき、あなた自身は、自分の眺めている者とはちがうのだと思うの。つまり自分は何者でもないんだって。要するにそれがあなたの理想なのよ。何者でもないということが」

   「何者でもない」と、ゆっくりとマチウは相手のことばをくりかえした。「ちがう。そりゃそうじゃない。いいかい。僕は……自分自身に忠実でいたいんだ」

   「そうだわ。自由でいること。まったく自由でいること。それはあなたの悪いくせよ」

   「そりゃ悪いくせというものじゃない」と、マチウは云った。「それは……。じゃほかのなにをしろっていうのだ?」"

(ジャン=ポール・サルトルサルトル全集 自由への道 第一部 分別ざかり』人文書院 S56-8-10)


MemoReals #1-2

キリスト教がもたらした思想とその受容の変遷に興味がある、みたいな話を6時間ぶっ通しで続けてても浮かない池袋、最高だった。



年始に丸善に行ったら、美術本コーナーでフェルメールが特集されていた。マジでみんなフェルメールしか見てないのかとびっくり。



『さらざんまい』とか幾原監督関連の記事が読まれてるっぽい。検索してオタクの人が見つけてくれてると思うけど、身のない与太話しかしてない…ごめんなさい…。



クリスマスには浅草に行った。カッパが本当にいっぱいいた。スカイツリーがSFだった。コーヒーメーカーデカすぎた。住宅街が不気味に静かだった。楽しかった。



『塔とは何か』面白かった。後半は建築の話になるので読み飛ばしたけど…。もっと塔とか地図の本増えないかな。



こんだけ短い散文書くのは楽で、Twitterで良いんじゃないかと思えるけど、コミュニティと隔離されてるからこそ書ける気もする。



バイトに新しく入った子が、ちょっとおかしい人ぽくて安心した。吉田戦車とか引き笑いしながら読んでそう。偏見。



ドラゴンボール』の映画をTVで観てて、悟空が「よくわからねぇかもしれねぇが…超サイヤ人神の力を発揮した状態での超サイヤ人の〇〇とでもいうのかな」みたいなこと言ってて、マジでよくわからんなくて笑った。『キングダムハーツ』が今どうなってるのか聞いた時と同じ感覚だった。



平成の次は"虚無"だと信じて憚らないので答え合わせ早くしたい。"絆"とかキラキラしたヤツだったら火炎瓶投げてやりたい気分。



現行のジャズシーンが掘っても掘っても追いつかない。音の粒立ちからして違うというか。音大出身がほとんどなんだろうし、その学びの積み重ねから現れる一音一音に迷いがない。作家主義的にその人の物語と重ねることよりも、音楽至上主義で聴ける喜び。



山田玲司さんのZガンダム解説を見る。ピンドラの時もそうだったけど、世代が違うと捉え方も違うな、という当たり前のことを思う。物語の説明が足りな過ぎて、キャラクターのエゴのぶつかり合いに着目するしかない、というのは結構Zの通説っぽい。全編通して思ったのは、母性を求めるという点で源氏物語に近い気がする。アムロやシャアの場合、現在進行形の恋人は一人のように見えるが、カミーユはめちゃくちゃ。たとえば、映画版でもフォウと離れ離れになった直後、ファにキスをせがんだりする。女好きと指摘されても悪びれる様子もなく、源氏並みの貞操観念の持ち主だった。平安期の文学は貴族の恋愛模様が主だが、その裏に政治のメタファーがさらっと盛り込まれていたりして、そのバランスも近いっちゃ近い。とはいえカミーユ達は貴族というより庶民。現代の縮図的に、性愛に励むのはむしろ庶民っしょという無意識の現れなのか、単に英雄譚のフォーマットだから神話的に捉えているのか。そこまで深読みできる知識も経験もないので、やっぱりアニメレビューはもっと気楽にやった方がいいよね。なんだこの結論。

MemoReals #01

夢を見ていない。睡眠が深いということなのだろうか。身体は重くないが、想像力が欠如している気がする。本を読んでもどこに自分を置けばよいのかわからない。『二年間の休暇』を、洞窟の死体の目線で眺めることは健全なのだろうか?形而上学的な作品に触れていないからかもしれない。多次元的に世界を捉えるということ。



スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』の原題は『The Body』。単に死体を指すだけでなく、ホモセクシャルな少年たちがいかに男性性に目覚めてゆくか、自分の成長と向き合って行くかというお話なのだと思う。ヒルに男性器を咬まれるというエピソードは露骨にそれを物語っている。女性は自らが女性へと変態する際の戸惑いをよく表現に落とし込む。男性も顧みて、目を向けるべきではないか。高校の教科書にキングかヘミングウェイ不能小説でも載せればいい。



死体を探しに行くよりもエロ本を探しに行く話が書きたい。阿部和重が似たような話を書いているが、もっと下らないもの。



Zガンダム』を観た。セクシャルな場面が盛り沢山で、コミケが盛り上がるわけだな…と感じる。ファーストはまだ生き延びる為という至極当然な理由で皆動いている気がしたけど、Zは戦争の前にセックスがある気がして、茶番に見えてしまう。特にカツは下半身の衝動に突き動かされているようにしか思えなくて、こんな子供に心動かされるサラはどれほど不憫な生き方をしてきたのか。カミーユが、敵側の異性の兵に惹かれることをイニシエーションのように考えていたのもすごい。ブライト艦長はもっと粛清してやればよかったのに。



AbemaTVの『NEWS RAP JAPAN』から日本語ラップをまたよく聴くようになった。バトルMCの音源は面白くないという通説は確かで、実際に聴いてみても興味のある人はほとんどいない。ただ、この番組のレギュラーである呂布カルマとTKda黒ぶちは音源も良かった。呂布カルマは、現在KANDYTOWNのクルーとしても活動しているRyohuと検索エンジンでよく混合されていたので、名前は知っていて、今までちゃんと聴かなかったことを後悔。才能至上主義を掲げる?だけあって、リリックの切り込み方がアイディアに満ちているし、ユーモアのセンスも素晴らしい。Zipsies「Still Image Love」のような生音ぽい曲ももっと聴きたい。バトル=相手をDisって、でまかせで自分を上げるという先入観ーー勿論、そういう面もあるーーだけではないことを端的に表してくれたのがTKだった。番組ではサイコパス扱いされるほどに熱いバイブスが根底にあり、韻に踏まれて中身を感じられないMCも多い中、巧みに詰め込まれる言葉には一言一句哲学を感じられる。何回か出演していたpekoも硬派なスタイルを貫いて、去年の年末のillr「アイデンティティ」でも間違いないリリックを聴かせてくれる。



番組から離れたところで言うと、適当にディグってた時に知ったMaisouが良かった(Meisoではない)。Moe Shopというトラックメイカーの作品で客演で参加していて、DAOKO風でも声優風でもない、良い意味でオールドスクールなラップが耳に残った。まだ何曲かの客演と、自身名義の音源は4曲収録のEPということで、今後が楽しみ。前述のRyohuやRau Defの新譜は相変わらず良かった。去年はロック畑からBase Ball Bear小出祐介がマテリアルクラブ として、そして曽我部恵一の二人がラップを取り入れた作品をリリースしたりと、HIPHOPの裾野の広がりを実感した。



メンバーが変わってから聴いていなかったlyrical schoolRHYMEBERRYもまた聴くようになった。「DAYONE」、ハロプロのおまけラップ(という他ない…)、「もってけ!セーラー服」、「恋愛サーキュレーション」というアイドルラップの下地をオールドスクールHIPHOPマナーに寄せて上手くアップデートさせているのが両グループで、キャリアが長い分、楽曲に幅が出てきていて飽きさせない。特にRHYMEBERRYは再び三人体制になっており、それぞれのキャラが立っていてまるで漫画のよう。リリスクのピクシーズオマージュにはビビったが、既にやっている先人がいるんだろうか。



ピクシーズの楽曲を聴いていると、ディックを読みたくなる。数少ない所有しているSF小説は、宇宙どうこう科学考証どうこうよりトリップしちゃってるものが多い。ドラッグ文化はもっと掘らないといけない。



山下達郎作曲・吉田美奈子作詞の「夏への扉」を聴いて泣きたくなる。夏は苦手だったのに年々嫌いじゃなくなってきていて、少し悔しい。ツンデレか。



ここ数日、頭の中に居座っていた自殺願望を蹴飛ばす。揺り戻しが怖いので、過剰な躁状態にならないように気をつける。



年末に観た『カメラを止めるな!』、タブレットで観るくらいで個人的にはちょうどよかったと思う。大したことないシーンなんだろうけど、作中で女優のお尻のアップがあって、それが「脚フェチ、尻フェチってセンスあるっしょ?」的に観えて冷めた。ゴダールトリュフォーに送った手紙みたいな指摘で、我ながら意地の悪い考え方。伏線を周到に張っているから、意味のないシーンが余計に浮いてしまっているのかもしれない。



新年会は下ネタの応酬に挟まれて、15分は沈黙していたと思う。席順は大事。



Twitterが5chとmixiの腐りかけにしか見えなくて草可避。素人が誰にやってんのか、媚び売ったり政治家煽ったり。高齢化の影響だろうか。さむい。一生やってりゃいい。



新作映画に寄せられるコメントほどどうでもいいものはない。名前貸してるだけって感じでも報酬は発生するんだろうけど、そのうちまとめサイトみたいなことしか書かなくなるんだろうな。いっそ、「振り返らなかった人生。大事なものばかりだな。久しぶりに会いたくなった、思い出に(15歳・男性)」くらい馬鹿げたこと書いてくれ。



もしyoutuberにならなければいけないとしたら。「ポストトゥルース」というチャンネルを開設して、たとえば橋本環奈と昔付き合ってたとかデタラメ言って、後半はまじめに彼女の出演作について語る、みたいなフェイクニュース?がやりたい。

Don't Forget, Mistake

ベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』、観ました。

ベルトルッチは処女作の『殺し』しか観ていなくて、あんまりハマらなかったんですが、『ドリーマーズ』はすごい良かったです。アマプラで何の気なしに再生したものの、流し観できず。

誰にでもおすすめできるものかどうかは微妙…というのも、色々な映画や音楽が五月革命頃のシネフィル達の青春を彩るわけですが、大ネタがジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』で。

ヌーヴェルヴァーグを扱うにあたって超王道な選択であり、ベルトルッチも主人公三人よろしく「常識ですよね?」という感覚でやってる。この共通認識がないと楽しめないかも。Wikiの「呪われた映画祭」というドキドキする項目に目を通していただければ一発でわかる話ですけど。

そうした背景を抜きにするとただのノスタルジーになってしまうんですよね。何故ここまで露骨に『怖るべき子供たち』をなぞるのか、ゴダールを模してようでトリュフォー的な引用をするのか。タイトルが示している通り、ベルトルッチワナビーであるという姿勢が雄弁に物語っていて。もう超良く出来た偽物で。それがエモい。



ちょっと前に「サブカルFxxk」的な記事を書いて、吐き出したことに満足して、割と速攻で消して。

そこで「これから何回『怖るべき子供たち』を消費させられるのか」と書きました。『ドリーマーズ』はその疑問に答えてくれた気がします。

露骨なセックス、革命、そして死の誘惑。書いていて恥ずかしくなるくらい、映画だった。プリミティブ。


この感覚、なんかラノベじゃね?ってなったので数冊買ってきました。そうだね、よくわからないね。とりあえずモザイク無しで観てぇなって映画≠超大好きでした。

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デヴィッド・ボウイ試論 ; トリック・オア・トリート

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好きなアーティストは、と聞かれると、なんだか口ごもってしまって、つい「デヴィッド・ボウイ」と答えてしまいます。

ボウイとか寺山とかゴダールとかってなんか便利なんですよね。プラスチック・ソウルとか言ってるような人は色々なスタイルを自分に取り込んでアウトプットしていたから、ボウイのディスコグラフィ≠60's後半〜10's中期なわけで。浅く広く手を広げまくってる自分を説明する代名詞的な存在というか。

実のところ、彼の音楽のすべてを好きなわけではなくて…本当に好きなのはジギー以前の四作なんですよね。個人的にジギー以降はビートの単調さについていけない瞬間があるます。どうしそこまでボ・ディドリーにこだわっていたのか、未だに理解できなかったりするし。ベルリン三部作は歌モノよりもインスト(『ロウ』『ヒーローズ』B面)をよく聴くし、その頃に限って言えば、ボウイよりもブライアン・イーノの方が好きなのかもしれない。

ボウイのスタイルというのはなかなか一言では説明しづらいんですが、その中でもリズムに言及している人は驚くほど少ない気がする。遺作『★』に関して、冨田ラボが興味深いことを話しているくらい。ただ、「ジャズではなくロック」と冨田ラボは言っていますが、ボウイにはロック、ロックンロールのイディオムすら血肉化されていないのではないかと思ってしまう瞬間がある。

『ピンナップス』はボウイのルーツを示したカバーアルバムとされてますし、世代的にもロックンロールがボウイの出発点と考えるのは自然な流れなのかもしれない。でも、第一次ブリティッシュロックムーブメントの中でボウイは突出できなかった。彼はデッカレコーズから何枚かシングルをリリースしたものの鳴かず飛ばずだった。ソロの1stアルバムをリリースした後、俳優としてのキャリアスタートを挟み、よく知られた「デヴィッド・ボウイ」のイメージが世間に登場。月面着陸という時代のムーブメントを半ば利用する形で書いた「スペース・オディティ」がヒット。この「スペース・オディティ」に至るまでの経緯は無視されがちで、1stに関しては「サイケポップっしょ」みたいに軽く扱われがちなんですよね。パブリックイメージから程遠くないはずのアルバムなんですけど、やっぱりロックという括りからは語られにくいのかもしれません。セールス的にも失敗だったぽいし。



なぜボウイは最初から成功を収めることができなかったのか。ロックンロールの才能がなかったのか?それでは後のグラム期の成功について説明がつかない。少なくとも、成功の芽生えはあったにせよ、開花はその時ではなかったのかもしれない。

というのも、前述のボウイの1stアルバムを聴いてわかる通り、ポール・マッカートニーに通ずるブロードウェイ仕込みのポップセンスがすでに見出せるわけで、ロックンロールだけがボウイの音楽的資質を育んでいたわけではないんですよね。その中にはジャズもあればフォークもある。一概にロックの人とは言い切れない。

とっつきにくい1stを踏まえて考えると、ボウイは脈々と連なるポップスの文脈の中にあって、ロックンロールはその一部であったと見るべきではないか。その在り方は2ndアルバムの時期にロールモデルの一つとして参考にされていたボブ・ディランに近いのではないか。フォークロアのシンガーとして、「私」よりも「アメリカ」を主体としている彼に。

加えて、俳優としても同時期に活動を始めたことも鍵になっていて。リンゼイ・ケイプの元で、道化としてのパフォーマンスを学び、『世界を売った男』、『ハンキー・ドリー』を経て遂にジギー・スターダストのペルソナを獲得する、という流れがあって。自身のパーソナリティを一次元的に表現するよりも、他者や時代から参照点を得、多層のレイヤーを表現する手法を選んだのではないか。

ジギー期のアンサンブルにミック・ロンスンが多大に貢献したことはもはや言うまでもないですが、それに加え、ボウイの魅せ方が巧みだった。下地はあったにせよ、やっぱり演技に触れたことで大きく開花したのだと思います。ジョン・レノンの言を借りるまでもなく、「グラムロック=口紅を塗ったロックンロール」で、少なくともボウイのスタイルは良質なパロディだったんじゃないでしょうか。

ジギーに至る以前の二作はロックンロール一辺倒ではなくて、ハードロック寄りの『世界を〜』はともかく(大好きですけど)、『ハンキー・ドリー』はトニー・ビスコンティのプロデュースとボウイの多彩なソングライティングが見事に合致した、70年代を代表するポップ・アルバムになっています。まぁボウイファン以外にはいまいち浸透してない気もしますけど…。録音は『ジギー』と同時期なのでややこしいですが、だからこそ彼の演出がいかに徹底されていたかがわかる。SF的な「ライフ・オン・マーズ」や非常にジギー的な「クイーン・ビッチ」を『ジギー』に収録しなかった辺り、その美学は徹底されています。



全部好きなわけではない、とは書きましたが、不思議と「デヴィッド・ボウイ」の音源だと意識しなければすんなり聴けたりします。ボウイの声は独特だと言われるのに、自分にはそうでもないらしい…。ただ、そのスタイルに関しては現在でも類を見ない特異な人だったと思います。

ボウイに関する文献を読み解いて書いているわけではないので、試論つうかマジで私論なので、折を見てまた書きたい。タイトルはまぁ適当っす。意味があるような、ないような。


最後に、勝手にボウイのレクイエムだと思っている曲を。良い曲。

https://youtu.be/h4xq7zLWlbM