眠りにつく10秒前。

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Don't Forget, Mistake

ベルナルド・ベルトルッチの『ドリーマーズ』、観ました。

ベルトルッチは処女作の『殺し』しか観ていなくて、あんまりハマらなかったんですが、『ドリーマーズ』はすごい良かったです。アマプラで何の気なしに再生したものの、流し観できず。

誰にでもおすすめできるものかどうかは微妙…というのも、色々な映画や音楽が五月革命頃のシネフィル達の青春を彩るわけですが、大ネタがジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』で。

ヌーヴェルヴァーグを扱うにあたって超王道な選択であり、ベルトルッチも主人公三人よろしく「常識ですよね?」という感覚でやってる。この共通認識がないと楽しめないかも。Wikiの「呪われた映画祭」というドキドキする項目に目を通していただければ一発でわかる話ですけど。

そうした背景を抜きにするとただのノスタルジーになってしまうんですよね。何故ここまで露骨に『怖るべき子供たち』をなぞるのか、ゴダールを模してようでトリュフォー的な引用をするのか。タイトルが示している通り、ベルトルッチワナビーであるという姿勢が雄弁に物語っていて。もう超良く出来た偽物で。それがエモい。



ちょっと前に「サブカルFxxk」的な記事を書いて、吐き出したことに満足して、割と速攻で消して。

そこで「これから何回『怖るべき子供たち』を消費させられるのか」と書きました。『ドリーマーズ』はその疑問に答えてくれた気がします。

露骨なセックス、革命、そして死の誘惑。書いていて恥ずかしくなるくらい、映画だった。プリミティブ。


この感覚、なんかラノベじゃね?ってなったので数冊買ってきました。そうだね、よくわからないね。とりあえずモザイク無しで観てぇなって映画≠超大好きでした。

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デヴィッド・ボウイ試論 ; トリック・オア・トリート

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好きなアーティストは、と聞かれると、なんだか口ごもってしまって、つい「デヴィッド・ボウイ」と答えてしまいます。

ボウイとか寺山とかゴダールとかってなんか便利なんですよね。プラスチック・ソウルとか言ってるような人は色々なスタイルを自分に取り込んでアウトプットしていたから、ボウイのディスコグラフィ≠60's後半〜10's中期なわけで。浅く広く手を広げまくってる自分を説明する代名詞的な存在というか。

実のところ、彼の音楽のすべてを好きなわけではなくて…本当に好きなのはジギー以前の四作なんですよね。個人的にジギー以降はビートの単調さについていけない瞬間があるます。どうしそこまでボ・ディドリーにこだわっていたのか、未だに理解できなかったりするし。ベルリン三部作は歌モノよりもインスト(『ロウ』『ヒーローズ』B面)をよく聴くし、その頃に限って言えば、ボウイよりもブライアン・イーノの方が好きなのかもしれない。

ボウイのスタイルというのはなかなか一言では説明しづらいんですが、その中でもリズムに言及している人は驚くほど少ない気がする。遺作『★』に関して、冨田ラボが興味深いことを話しているくらい。ただ、「ジャズではなくロック」と冨田ラボは言っていますが、ボウイにはロック、ロックンロールのイディオムすら血肉化されていないのではないかと思ってしまう瞬間がある。

『ピンナップス』はボウイのルーツを示したカバーアルバムとされてますし、世代的にもロックンロールがボウイの出発点と考えるのは自然な流れなのかもしれない。でも、第一次ブリティッシュロックムーブメントの中でボウイは突出できなかった。彼はデッカレコーズから何枚かシングルをリリースしたものの鳴かず飛ばずだった。ソロの1stアルバムをリリースした後、俳優としてのキャリアスタートを挟み、よく知られた「デヴィッド・ボウイ」のイメージが世間に登場。月面着陸という時代のムーブメントを半ば利用する形で書いた「スペース・オディティ」がヒット。この「スペース・オディティ」に至るまでの経緯は無視されがちで、1stに関しては「サイケポップっしょ」みたいに軽く扱われがちなんですよね。パブリックイメージから程遠くないはずのアルバムなんですけど、やっぱりロックという括りからは語られにくいのかもしれません。セールス的にも失敗だったぽいし。



なぜボウイは最初から成功を収めることができなかったのか。ロックンロールの才能がなかったのか?それでは後のグラム期の成功について説明がつかない。少なくとも、成功の芽生えはあったにせよ、開花はその時ではなかったのかもしれない。

というのも、前述のボウイの1stアルバムを聴いてわかる通り、ポール・マッカートニーに通ずるブロードウェイ仕込みのポップセンスがすでに見出せるわけで、ロックンロールだけがボウイの音楽的資質を育んでいたわけではないんですよね。その中にはジャズもあればフォークもある。一概にロックの人とは言い切れない。

とっつきにくい1stを踏まえて考えると、ボウイは脈々と連なるポップスの文脈の中にあって、ロックンロールはその一部であったと見るべきではないか。その在り方は2ndアルバムの時期にロールモデルの一つとして参考にされていたボブ・ディランに近いのではないか。フォークロアのシンガーとして、「私」よりも「アメリカ」を主体としている彼に。

加えて、俳優としても同時期に活動を始めたことも鍵になっていて。リンゼイ・ケイプの元で、道化としてのパフォーマンスを学び、『世界を売った男』、『ハンキー・ドリー』を経て遂にジギー・スターダストのペルソナを獲得する、という流れがあって。自身のパーソナリティを一次元的に表現するよりも、他者や時代から参照点を得、多層のレイヤーを表現する手法を選んだのではないか。

ジギー期のアンサンブルにミック・ロンスンが多大に貢献したことはもはや言うまでもないですが、それに加え、ボウイの魅せ方が巧みだった。下地はあったにせよ、やっぱり演技に触れたことで大きく開花したのだと思います。ジョン・レノンの言を借りるまでもなく、「グラムロック=口紅を塗ったロックンロール」で、少なくともボウイのスタイルは良質なパロディだったんじゃないでしょうか。

ジギーに至る以前の二作はロックンロール一辺倒ではなくて、ハードロック寄りの『世界を〜』はともかく(大好きですけど)、『ハンキー・ドリー』はトニー・ビスコンティのプロデュースとボウイの多彩なソングライティングが見事に合致した、70年代を代表するポップ・アルバムになっています。まぁボウイファン以外にはいまいち浸透してない気もしますけど…。録音は『ジギー』と同時期なのでややこしいですが、だからこそ彼の演出がいかに徹底されていたかがわかる。SF的な「ライフ・オン・マーズ」や非常にジギー的な「クイーン・ビッチ」を『ジギー』に収録しなかった辺り、その美学は徹底されています。



全部好きなわけではない、とは書きましたが、不思議と「デヴィッド・ボウイ」の音源だと意識しなければすんなり聴けたりします。ボウイの声は独特だと言われるのに、自分にはそうでもないらしい…。ただ、そのスタイルに関しては現在でも類を見ない特異な人だったと思います。

ボウイに関する文献を読み解いて書いているわけではないので、試論つうかマジで私論なので、折を見てまた書きたい。タイトルはまぁ適当っす。意味があるような、ないような。


最後に、勝手にボウイのレクイエムだと思っている曲を。良い曲。

https://youtu.be/h4xq7zLWlbM

少年少女は荒野をめざすのか

2018年10月21日。

神奈川近代文学館にて、寺山修司展記念トークイベント「少年少女たちの行方ーー寺山修司の21世紀」に参加してきました。ので、簡単なレポを。

※私の主観におけるレポートになります。可能な限りフラットに参加したつもりですが、大なり小なり発言を歪曲して受け止めていることもあり得るかと思いますので、ご容赦ください。



14:00ピッタリに照明が落とされ、『少女革命ウテナ』の映像がスクリーンに流れます。有名な決闘広場へ向かうバンクシーン(エレベーターVer.)。映像が終わると壇上にはお三方が。こういうトークイベントに参加するのは初めてだったんですが、アナウンス通りの時間で始まることにちょっと感動しました笑。

寺山、シーザーさん、幾原監督の作品をいくつか見直し、聞き手の三浦雅士さんの本も事前に何冊か読んだりと、かなり準備していたのでお話は大体呑み込めました。情報としては本に書かれていることがほとんどだったし、それこそ、以前、シーザーさんと幾原監督が行ったトークイベントのレポとかなり重複する話が多かったです。逆にそうしたサブテキストを知らない人には理解しづらい話だったかもしれません。

はじめに三浦さんから、会場一帯が「ウテナの舞台である鳳学園にそっくりでは」という指摘があり、監督も放送前にロケハンしていたことを明かしていました。近代文学館の目の前がローズガーデン(薔薇園!)だったり、文学館?の構造が似ていたり…。港の見える丘公園以外にも、横浜周辺の公園はウテナを思わせる風景が多くありました。元町から横浜駅まで歩いて帰ったんですが、横浜駅周辺は道路しかなく(マジでコンビニすらない)、その中でみなとみらいは正に「永遠があるという城」といった感じで浮きまくってました。文学館、というより横浜全体がモデルの一つだったのかも。都市と物語の構造が似ているというか。

一応、イベントタイトルの一つの結論は、インターネットメディアの発展、それに適合するために生じる承認欲求は60年代にTVメディアと共に登場した寺山と重なる…といったところだったかと。ただ、明確に提示されるには時間の経過が必要な問題提起なので、正直カタルシスは得られませんでしたが…。

生前の寺山と直接関わっていたお二人、そして寺山の熱狂的なファンであった監督が揃っているにも関わらず、話題の方向が定まらなかったのは、監督のファンに向けた気遣いだったのかなと思いました。寺山のフォーマットを利用しようが万有引力の音楽を起用しようが、結局はアニメはアニメファンが受容するものだし、監督が仰っていたように「寺山の舞台のすごさは現代には伝わらない」んですよね。平成生まれの私にはそれはわからないし、時代背景として学生運動が話題に上がっていましたが、本当に現代の若者に学生運動は理解されづらい。そうした世代間の断絶を描いていた『輪るピングドラム』が全く俎板に乗らない、というのもちょっと皮肉な話でしたが…。

観客の寺山受容が把握しきれていない中、作品論ならともかく、作家論を90分程度でまとめるというのがそもそも無理な話で。そういう苦しい状況の中、深く話を切り込み続けていた三浦さんの機転の良さには感服しましたし、監督の「今のアングラ演劇は死に向かうけど、寺山さんは最後には生に向かっていく」という考察には実作者ならではの説得感がありました。そしてシーザーさん。お話されている姿を拝見したことがなく、見た目の印象からてっきり「The アーティスト」な人かと思っていたんですが、想像以上にユーモラスな方なんですね笑。二人がヒートアップしていく中、会場の空気をフラットにしてくれて、第四の壁を破壊しまくってる感じがたまりませんでした。まさに寺山イズムの後継者?

最後の質問の場に顕著に感じられましたが、ほとんどがメディアに関わる質問で、トリックスターたる寺山っぽいなと興味深かったのと同時に、寺山の普遍性についてはイベント全体を通してあまり語られなかった気がします。アジテーションは普遍的といえば普遍的なのか?ただ、寺山のアジテーションにそれほど感化されない自分からすると、そうした「事件性」以外の作家性から寺山を掘り下げてもらいたかったかも…贅沢な話ですが。

「寺山は演劇を愛していたのか、それとも憎悪していたのか」という話の続きも聞きたいし、もしまた(三浦さん曰く)3.5人の座談会が催されるなら、観客に気兼ねなく話を広げられそうな雑誌上の対談形式なんかで読んでみたいなと思いました。



三浦さんの著作でいうと、やはり寺山論は今回の話に直結してました。「懐かしさ」や作家性のお話はイベントでは掘り下げられませんでしたが、この本で補完できるかと。

寺山修司―鏡のなかの言葉

寺山修司―鏡のなかの言葉


三浦さんの『青春の終焉』も良いですが、『輪るピングドラム 』のサブテキストとしても非常に優秀だと思うこれを。若者のドグマの行き場のなさ、21世紀の少年少女の行方、というテーマも書かれています。「学生運動ってなんじゃそら」という方にも入門として入りやすいかも。

※残念ながら絶版でプレミア化していますが、教育心理学に分類される内容の為、図書館には割と置いてあるかと思います。

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

近く/地殻/知覚の扉

表記揺れすぎなんで気取って英語で書きます。インテリでごめんね。Aldous Huxleyの『知覚の扉』を読みました。

彼の著者『素晴らしき新世界』はディストピア小説の名作とされています。個人的にディストピアモノに生きる登場人物って全然幸福そうに見えなくて、「これって社会として機能してんの…?旨味全然ないやん」と突っ込み入れちゃうんですけど、『素晴らしき〜』は私の理想のディストピアモノでした。洗脳も描かれてるけど、それ以上に大多数の市民の快楽主義的な幸福は担保されてるから、その上で主人公たちが完全に調和を狂わす異物だなってことが実感としてちゃんと感じられる。トマス・モア『ユートピア』の風刺性を正しく受け継いでいるんじゃないでしょうか。

Huxleyとは気が合うわコレ、と二冊目に手に取ったのが『知覚の扉』。というか、あと『恋愛対位法』以外は手に入りにくいっぽい。

ドラッグ体験記という形なんですが、中身はほぼ芸術論と言ってよく、タイトルの"知覚の扉"というのはめっちゃ要約すると「よく見ろよ」という意味に捉えられるんじゃないかな〜と思います。ラリったHuxleyはボッティチェリの絵画に見るのと同じように、自分のパンツの皺に一瞬の永遠を見出します。「視る」ということは永遠なんだと。そのゾーンに入ってしまえば世界の秩序から離れて、「視る」自分と対象の幸福な交感が待っている、つまり「ウチらニコイチで最強じゃね」ってことですね。多分な。

この万能感がハンパないのが、「やっぱフェルメールが究極っすわ」とか恥じらいなく書いてるあたりですね。おっさんになって初めて美術展行った人みたいなこと言ってる!ドラッグすげえ!

前述の皺の下りのように、現実生活でも「視る」ってことが大切なんだな、と最近よく思います。人の顔をちゃんと「視る」と自然と笑顔が作れるんだな、と気付いたことがきっかけでした。まぁHuxleyは生身の人間には永遠を感じなかったらしいですが…。

視姦に代表される、視覚によるサディズムって、大体相手をピグマリオンとして解釈しているわけで、受動的にスマホ眺めているのとは違う。敵意がないことを示す表現が笑顔、だとすると単なる反射なんですけど、「視る」主体の自分がいて、自分もまた相手の「視る」対象とされる関係性が確立されているからこそ得られる反射なんですよね。

"目にうつる全てのことは メッセージ"とユーミンは歌っていて、タイトルの「やさしさに包まれたなら」って一見受動的なんですけど、"カーテンを開いて"、"大切な箱 ひらく"と、能動的に自分を外側に向けることではじめてやさしさを受け取れるという歌なんですよね。しかも"うつる"ってひらがな表記だから、「映る」という意味はもちろん、「移ろう」という意味も含まれているようにもとれる。一瞬に全て、永遠を見出してるのかもしれない、とか考えるとやっぱりユーミンやばいとしか言えない。

他にも、花の官能性にもヤラれてるHuxley。自分も子供の頃、一日中花を眺めてるのが一番幸せだった記憶があって、今思えばトリップに近い感覚だったのかもしれません。ヘッセも「アヤメ」という短編で同じようなことを書いていて、この二人の作家が同時代というコンテクストを持たずとも、ヒッピー達に受容されていたというのは偶然ではないんだろうと思います。

ドラッグは健康的ではないから自分で体験したいとは思えないけど、表現者たちに普遍的なイマジネーションを与えていたのは確かなのかもしれません。表層のその奥を覗き、普遍に達する視点の転換を補助する作用があるんじゃないかと。こうなると多田智満子『薔薇宇宙』も読んでみたくなりますね。復刻してくれないかしら。

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カーネーション、リリー、リリー、ローズ

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創刊時の『つぼみ』をまるでエロ本かのように新潮文庫の間に挟んで買い、掲載作品にあまりに乗れなくて百合漫画を読むことに抵抗がある…そんな経験、ありませんか?

そういう方もいますし、そうじゃないって方もいますね。はい。『STEINS;GATE』でおなじみ、まゆしぃ文法ですけれども。E.YAZAWA®︎文法並みに汎用性高いのでつい使ってしまいますね。

なんなんでしょうね。百合というジャンルのアンビヴァレンツな感じ…。BLの洗練が羨ましい。歪さをどうにか言語化できないか試してみたんですけど、脳が泥沼化するのでやめました。

直近で読んで「ああ…」と落胆したのは池田理代子先生の「ゆれる早春」(『おにいさまへ…』の3巻収録の短編。順子ちゃん激かわ)。百合漫画というか少女漫画なのであんな結末なのかもしれませんが。順子の嫉妬心を救済するトゥルーエンドが見たかったな…。

そんなわけで、百合は地雷、そう思い込んでいた時期が私にもありました。つい最近まで。恥じらいます。地雷と恥じらいで韻踏めるね。変換予測機能ってすげー。

映画の『水の中のつぼみ』やゲームの『Life is Strange』に触れたりはしつつも、なかなか国産の作品には手が出せなかった中、見つけてしまいました。試し読み、そしてご購入。消費社会の歯車久々に回しました!僕はここにいていいんだ!



前置きが長いからふざけるんだな…。



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先日とか言って先月だった。『猫だまり』と同時刊行されたデビュー作のひとつみたいです。
表紙を見て察する方もいると思いますが、月子さんのこじらせビューティーぶりは期待を裏切りません。このキャラクターが呑み込めない人はあまり乗れないのかも。私はドンピシャでした。もし美少女に生まれていたらこんな振る舞いをしていただろうなと。というかしてました。内海さんみたいな友達にイライラしてました。まぁただこじらせてただけなんですけど。ギャルっぽかったりオタクっぽかったり、ちょっとズレてる子とツルんでるのもめっちゃわかりみ。わかりすぎて説明ができない。
心象風景とモノローグの描写のバランスが読んでいてとても気持ちいいです。友情や恋愛というテンプレートに当て嵌めすぎず、関係性を丁寧に追っているのも素敵。1巻完結かと思いきや続いているようで、続刊がただただ楽しみ。


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こちらはややクローズドな学園モノ。タイトルにもかかっている、中心人物である「繭の君」の全貌は隠されていて…という不在で語る演出がされており、『ゴドー』、『桐島』形式のお話。『Flowers』(ちゃっかりやってました)が好きな人には馴染み深い構成ですね。髪で編まれた制服、という設定にも引き込まれます。
キス描写がロングショットで捉えられているんですが、逆に生々しさが感じられました。主人公?の洋子は終始後ろめたさを感じさせるので、エロスを抱えたキャラクターとして描かれていくのかな。疑似恋愛的な描写をメタ的に見せたりもしているので、内罰的になっていく予感も。前述の『ゆれる早春』順子のように、潰されないように祈るしかない…。


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amazon以外では書籍版が他サイトで通販購入できるみたいです。前編・後編で完結。
男性が社会悪的に描かれていて、かつ本編にも深く関わってきます。後で良好な関係になろうとも、強引に迫る描写は自分も苦手なんですが、この作品ではもはや暴力、殺人にまで及んでいるので、合わない人には徹底的に合わないと思います。あらすじの時点で察しはつくでしょうが…。
冒頭の「生き残って偉かったね」という台詞からして、社会批評に突っ込んでる。すごい今の感覚。集英社が強気な文言の広告を打って『さよなら ミニスカート』を打ち出していて、フェミニズムがやりたいのかなぁと思いましたが、ここまで露悪的にやらないと伝わらない気もします。
ただ、表現としてストレートに描く必要はあるのか(特に百合というジャンルで)、また、ディストピアモノにありがちなんですが、搾取する側とされる側を極端に描きすぎているのではないか、など色々と考えさせられます。表紙イラストのように鮮明すぎる、生身の作品と言えるのかもしれません。


久しぶりに作品の感想を真正面から書いた気がします。めっちゃ疲れる…。百合がまだジャンルとして確立しきれていない、というあたりにも気を遣いますね…。
三つの作品を並べてみて、逃避願望(エスケーピズム)が描かれているのが現代だなあと感じます。現代というか、何年もこの話してますし、元々普遍的な欲望なんですよね。
作品から離れたことを言えば、安易に「逃げてもいいんだよ」と言っていいのか?と思うことが少なからずあるんですが…。考え込んでも答えは出ないし、社会という大きい枠組ではなく、個人の意識の変化を促すという点において、漫画って良い感じのメディアなわけで、「同性の関係性」を掘り下げる百合の表現には、期待半分不安半分で触れていきたいですね。
急にデカい話になってしまった…。しばらく書かないからこうなるんだよ!

かめざんまい

コクトーみたいなマルチタレントは別として、映画監督や音楽家、俳優など、文筆を本業としない作家の関連本って普段あんまり買わない…。でも大林宣彦監督と幾原邦彦監督に関しては気になって読んじゃう、悔しいっ。

最近の脳トレ?として幾原監督の新作『さらざんまい』について考えてます。考察って言うけど作品観てないからただの予測よな。Twitter覗くと結構出てきますね。なんとなくそれっぽいかなぁというのは、

芥川龍之介「河童」(「浅草公園」もあるかも)

・カワウソが河童になるって昔話

・∞的なマークは手錠?

・さらざんまいとびんざさら舞をかけてる

・「あ」に丸→余る、アニマル

この辺りはありそう〜。

主要人物らしい二人の警官がどう物語に絡むのかは謎。監督の世代的に『がきデカ』とか『こち亀』のイメージなんですかね。

手錠のマークぽいやつの丸が三つ、ピクトグラムが三つということで主要人物はまた三人なのかな?警官二人はレオとマブという名前なので、マブはマブダチのマブ?レオは映画の『レオン』?だとすると女の子でも拾ってくるのかしらん、とか考えてたらスピンオフの漫画にマジで赤ちゃん出てきて笑いました。本編に絡むのかはわからんけど、BLに赤ちゃんって…いいよね^^(強迫としての顔文字って…いいよね^^)。

『レオン』がホントに元ネタだとするとレオは河童側なのかな〜。

警官といえば銃なので、銃も重要なアイテムになりそう。フロイドの『The Wall』に続いてザ・フーの『Tommy』とか出てきちゃったりしないかしら。

とかとか色々妄想は膨らみまくり。結局、当たってようが外れようが、一番観たいのは演出なので、邪推なんですけど。

あと誰も言ってないぽいから多分外れかな〜と思うのは、

・∞手錠マークって五輪ぽくね?

・「その河を渡れ」→イムジン河…?

・オリンピック?朝鮮?在日?

テーマデカすぎ笑。と笑いたいところなんですけど、タブーに触れてきた監督ならやりかねない気もする…『ユリ熊嵐』のモチーフとも重なるし…。

それにしても、びんざさら舞とかちょっと大林監督ぽくないですか?正直、幾原監督が好きになったのって大林監督と近いと思ったからなので、何が言いたいかというと、ただ嬉しい!ってだけです。

ともかくとにかく、お二人の新作を首を長くして待つ毎日。幸福〜。

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覚醒までの10秒前。

以前、「安部公房のような天才ではないので夢日記をつけてもつまらない。やめた」と書いたんですが、惰性で続けてます。ただ、こう、あれよね…非常に性的で…フロイト先生の良いモルモットにされそうだなと…。

割と展開のある夢を見てて、物語脳なんだなと思います。文脈汲みたがり人間。「それGIFじゃん」っていう夢の話する人が多いので珍しいのかも?

記憶が曖昧なところから引っ張り出してるので、多少切ったり貼ったりしてます。バリー・ユアグローの二次創作、という地点にも及んでいないんですが。凡人が見るエロチックな夢のサンプルって感じでどうぞ。



父親に詰られる。

笑いながら。

"子供の頃の夢にしがみついて生きてるんだろう"



真っ白い空間。

恋人が父親に強姦されている様を、後ろ手を縛られた状態で見せつけられる。



暗い夏の日暮れ時。大きな空砲。

空を覆う色とりどりの花火。恐怖を感じる。

花火はやがて地上に降り注ぐ。弥生美術館が崩れてゆく。瓦礫の雨の中、髪を振り乱した女の球体関節人形と目が合う。瞬間、燃え盛る火。反射でガラスの眼玉が潤む。無数の炎は真っ赤なビー玉と姿を変える。

母が火事により下半身不随となる。蝉の鳴き声のうるさい、やけにセピアがかった病室。動かないカーテン。私は泣き崩れる。長い脚をミニスカートから覗かせた、ショートヘアの若い看護婦の言葉。

「本当はこうしたいんでしょう」

蝉の鳴き声は消え、視界は真っ黒な画用紙。花火の音と共に、万華鏡のように彼岸花が現れては消える。



薄暗い教室。夕陽が斜めに影を作る。

恋人や、恋人の妹に本を数冊贈られる。矢川澄子、ガルシア=マルケス、『春のめざめ』、フランスのノワール小説、シュトルムの未公開詩篇等。感激を覚える。



赤、赤、赤で埋め尽くされた洋館。まるで巨人の家のよう。

私達はみな子供だった。ドレスで着飾ったり、本物の海賊の装束で暴れまわったりしていた。衣装は様々で、共通するのは毛皮が施された仮面だけ。同期して、チェス盤の上で理路整然と動く精巧な造りの椅子たち。

男の子の持っていた斧が落ちる。音はしない。絨毯の上。誰かが叫ぶ。「水漏れだ!」私達は声の方へ吸い込まれてゆく。 

巨大な窓が開かれる。誰の手によるものでもなく。目に飛び込んできたのは青空だった。地上はない。そして、滝のように激しい放物線を描く雪解け水。ここから産まれるのだという、確信に満ちた気持ちがしみじみ湧いた。シンメトリックな双子の虹の間、空の高い高いところで、小さく花火が上がっていた。



マッチ棒を傾けて遊ぶ。

火はジリジリと指先に近づいてゆく。

剥がれた壁紙の代わりに、僕たちのロックスター、セックスシンボル、聖書が覆う。

「情熱を傾けるべきかどうか」という友人たちの押し問答。

網膜にはりつく熱。ぼやける視界。君の顔はよく見えない。前髪が重くなってゆく。

暗転。明るいロビーのようなところ。汗を吸ったシャツがいやに冷たい。足元に溢れている黒いビー玉。何かを諦めた音が硬く美しい。

ビー玉を拾い上げて、白いワンピースの女の子は鼻先に近づける。指で硝子の音を楽しみながら(足元で鳴っているそれよりも、高く澄んだ音だった)。

「夏の花の匂いがするね」



本、座椅子、鍵など、自室にあるものが巨大化して暗闇で回転している。迫ってきて、押しつぶされそうになるが、その実、私はその物体の中にゆっくりと取り込まれる。やがて、異物として勢いよく押し出される。

宇宙空間の中で太陽となって全てのものを繋ぎとめているものは電車だった。私だけがその引力の恩寵を受けられていない。電車の中で誰かが手を振った。応えなければならない気がした。思ったように身体が動かないので、必死に手を振り返した。車窓から注がれる光が増してゆき、白だけが残る。



レディースコミックの編集者と会う。私は新人作家としてダメ出しを受けていた。目にかかる前髪を気にもせず、彼は意見を続ける。

「あなた方作家の狭い了見によってレディコミの可能性は閉じられ、売れ行きが下がる一方なんだ」と憤慨される。レディコミの売れ行きが右肩下がりとは初耳だった。

気を落として家路につく。外はもう薄暗かった。温い空気が気持ち悪い。はやる気持ちで足早に歩いていたら、柄の悪い男にぶつかってしまった。

夏だというのに黒のスーツ、ネクタイで決め、ポマードでガチガチに頭髪を固めたその出で立ち。また、口調からもチンピラそのものだった。

男はがなり立てる。滑舌が悪いのでよく聞き取れない。何も言い返せず、ただおどおどしていると、男は私の手首を掴んだ。骨が痛い。周囲の人々は遠い目で見るばかり。血の気が引いた。

遠くなっていた意識を私の身体に引き戻してくれたのは、編集者の彼だった。彼は男から私を引き離すと、手を引っ張って一緒に逃げてくれた。今度は手首は痛くなかった。

地下鉄の階段前まで来ると、彼は呼吸を整え、私を叱った。「ぼんやりしているからこういう目に遭う」云々。私は「まるで漫画だな」とぼんやり考えていたが、そんなことを口に出したら、ふわふわと浮かんだ吹き出しを怒号で吹き飛ばされそうだったので、黙って彼のお節介に頷くしかなかった。



外食に出かけた。中華店。ウェイター達が忙しなく歩き回っている。聞き取れない声が飛び交う。中国語だろうか。店の外では、烈火のごとく走る自動車がストライプ模様を作っていた。

濃い化粧をした男性ウェイターが料理を運んでくれる。エビチリを頼んだはずなのに、皿の上には煙草の吸殻だけが載っていた。友人は手づかみで吸殻を掴み、「結構イケるよ」と平気な顔をしている。

「正気かよ」と思いつつ、自分も恐る恐る口に運ぶ。しょっぱい味がした。噛みきれない紙の食感が気になったが、食べられないことはなかった。しかし、二度目は駄目だった。口に含んだ瞬間、苦味が広がって吐き気がした。涙目になって机に項垂れた。毒々しい真っ赤な床を恨めしく思った。



観客のいない小劇場。舞台の上には小道具はなく、役者を照らすスポットライトだけ。役者は自分と男が一人、そしてピンクのカーディガンに白いスカート、ショートヘアの女性。女性は客席を背にしており、こちらからも人相はうかがえない。が、背中にA4サイズのコピー用紙が貼られている。そこには「桃井」の文字。

長い沈黙の後、男が唐突に言った。

桃井かおりの言いなりにはなるな」



情報誌をめくると、小劇場の記事を見かけた。野田秀樹演出の舞台らしい。『みんなひとりぼっち -七実の場合-』。

宮城県新乳群なる地域。24歳にして6回もの結婚、離婚を繰り返した七実という女性が駅に着く場面からはじまる。

6回目の離婚の後、くたびれきった左手の薬指はむくれていた。だから彼女は薬指を切断した。娘の奔放な生活に対して無関心だった父親もこれには激怒した。父親は有無を言わさず、七実修道院に入れることにした。

東京から新乳に下った七実は、まっすぐ修道院には向かわなかった。まず1回目の結婚相手の墓参りをした。彼は高校の同級生で、若くして亡くなった。七実は墓前に切り落とした自身の薬指を供する。

七実は莫大な慰謝料を使って、新乳修道院の真向かいに三楽(サンロク)修道院を新たに設立。新乳修道院との対立、父との確執、そして起こり得るはずのない、七実の妊娠…。

適当なあらすじの最後に「愛は七実にふりむくのか」と派手な蛍光色でキャッチーコピーが書かれていた。主演・メインビジュアルを務めている女性は久保田早紀によく似ていた。